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【経営者必読・歴史に学ぶ組織論②】 なぜ「エリート部署」の暴走を止められないのか? 〜明治憲法に学ぶ「二重政府」という組織の病〜

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はじめに:あなたの会社に「聖域」はありませんか?

「あの部署は社長直轄だから」「専門性が高すぎて誰も口出しできない」――あなたの会社に、そんなアンタッチャブルな「聖域」は存在しませんか?全社戦略を無視して暴走するエリート部署は、組織にとって最大のリスクとなり得ます。

前回、明治憲法という国家の「設計図」が、希望と共に構造的な矛盾を抱えていたことを見ました。今回は、その設計図に仕込まれていた「バグ」が、いかにして「軍部」という最強のエリート部署を暴走させ、組織全体を崩壊へと導いたのか。その恐るべきメカニズムを解き明かします。これは、決して過去の話ではありません。

致命的なバグ①:「統帥権の独立」という名の聖域

明治憲法の最も重大な欠陥、それは第11条にありました。

「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」

たったこれだけの条文が、日本の運命を大きく左右します。これは、軍隊の指揮命令権(統帥権)は、内閣や議会といった政府のコントロールを受けず、天皇に直結している、と解釈されました。

つまり、政府(内閣)が国全体の舵取りをする一方で、軍部は政府の意向を無視して、独自の判断で行動することができたのです。政治学者の吉野作造は、この異常な状態を「二重政府」と呼びました。国家の中に、互いに独立した二つの政府が存在するようなものだったのです。

これは、現代の組織に例えるなら、社長の指揮下にある経営企画部(内閣)とは別に、会長(天皇)にしか報告義務のない、超強力な事業部(軍部)が存在するようなものです。これでは、会社全体としての一貫した戦略など立てられるはずがありません。

致命的なバグ②:軍部が内閣を潰せる「裏ワザ」

さらに問題を深刻にしたのが、「軍部大臣現役武官制」という制度でした。これは法律ではなく、勅令(天皇の命令)によって定められたルールで、「陸軍大臣と海軍大臣は、現役の軍人(大将・中将)でなければならない」というものです。

これが、軍部に絶大な政治的パワーを与えました。もし軍部が、内閣の方針に気に入らないことがあれば、大臣を推薦しなかったり、現職の大臣を辞めさせたりすることができたのです。大臣が一人でも欠ければ、内閣は成立しません。つまり、軍部は合法的に、自分たちの意に沿わない内閣をいつでも総辞職に追い込むことができたのです。実際に1912年、この「裏ワザ」によって第二次西園寺内閣が崩壊させられる事件が起きています。これは「陸軍のストライキ」とまで呼ばれました。

「統帥権の独立」で政府からの干渉をブロックし、「軍部大臣現役武官制」で政府に言うことを聞かせる。この二つのバグが組み合わさることで、「政府は軍をコントロールできないが、軍は政府をコントロールできる」という、一方通行の歪んだ権力構造が完成してしまったのです。

バグの顕在化:「統帥権干犯」という名のクーデター

この構造的欠陥が、現実の政治で牙を剥いたのが、1930年の「ロンドン海軍軍縮条約」をめぐる事件です。

浜口雄幸首相率いる政府は、国際協調のために、海軍の軍備を制限する条約に調印しました。しかし、これに海軍の作戦司令部である軍令部が「そんな軍備では国を守れない!」と猛反発します。

ここで軍令部や野党が持ち出したのが、「統帥権干犯」というロジックでした。彼らの主張はこうです。「軍備の量を決めるのは、軍隊の指揮(統帥)に関わる重要な問題だ。それを政府が軍令部の同意なく決めるのは、天皇の統帥権を侵す、憲法違反だ!」。

もちろん、これは軍部が自分たちの権限を拡大解釈した「屁理屈」でした。本来、軍備の規模を決めるのは、予算や国策に関わることであり、政府の仕事です。しかし、この「天皇の権限を侵した」という批判は非常に強力で、浜口内閣は激しい攻撃にさらされました。

最終的に条約は批准されたものの、この事件のダメージは計り知れませんでした。浜口首相は右翼の青年に撃たれ重傷を負い、この事件をきっかけに、軍部は「天皇の軍隊」という錦の御旗を掲げれば、政府の決定すら覆せると自信を深めていきます。そして翌年、政府のコントロールを完全に無視した関東軍が、満州事変を引き起こすのです。

海外の目はごまかせなかった:アメリカが見抜いていた「構造的欠陥」

こうした日本の内部事情は、決して国内だけの問題ではありませんでした。当時のアメリカは、日本の政治を注意深く、そして期待と懸念が入り混じった視線で観察していました。その公式記録には、日本の「二重政府」という構造的欠陥に対する深い洞察と懸念が、生々しく記されています。

当初、アメリカは日本の政党政治に期待を寄せていました。駐日大使であったジョセフ・グルーは、日本が「1889年の独裁政治体制を抜け出し、英国議会型に向かい着実に進歩している」と評価していました。しかし、その楽観論の裏では、常に「軍事寡頭制」が立憲政治を「浸食する」ことへの根深い懸念が表明されていました。

その懸念が現実のものとなったのが、1931年の満州事変です。この事件は、アメリカの外交官たちに日本の統治構造の異常さを決定的に知らしめました。事件直後の1931年9月22日、駐日米国代理大使が国務省に送った電報には、「陸軍の行動に外務省は心底驚いているように見える」と記されています。これは、文民政府(外務省)が自国の軍隊の行動を全く把握・統制できていないという「二重政府」の実態を、アメリカがリアルタイムで認識していたことを示す決定的な証拠です。

ヘンリー・スティムソン国務長官も、この問題を正確に理解していました。彼は日本大使との会談記録の中で、日本の「幣原(外務大臣)と軍国主義的分子との間の明確な亀裂」に言及しています。つまり、アメリカの外交トップは、日本の政府が一枚岩ではなく、穏健な文民グループと暴走する軍部との権力闘争の場であることを認識した上で、外交政策を組み立てようとしていたのです。

この認識は、時と共にさらに深まっていきます。国務省の重要政策アドバイザーであったスタンレー・ホーンベックは1938年のメモランダムで、「米国務省が日本の外務省を論破できたとしても、その勝利が日本の軍事機構の前進を止めることはないだろう」と断言しています。

これらの公式記録は、アメリカが日本の構造的欠陥を単に傍観していたのではなく、その危険性を深く理解し、分析していたことを物語っています。そして、文民政府との交渉が無意味になりかねないこの「二重政府」問題こそが、日本を「信頼できない交渉相手」と見なす決定的な要因となり、両国を対立の道へと進ませていったのです。

第2回のまとめ

明治憲法に内包された「統帥権の独立」と「軍部大臣現役武官制」という二つの構造的欠陥。それらが「二重政府」という歪んだシステムを生み出し、ついには軍部の独走を止められなくしてしまいました。

個々の政治家や軍人が優秀であったか、善良であったかという問題ではありません。欠陥のあるシステム、つまり「構造」そのものが、組織全体を誤った方向へと導いてしまったのです。

次回予告:

最終回では、この壮大な歴史の失敗から、現代を生きる私たちが何を学ぶべきかを考えます。そして、この教訓が、意外にも現代の「会社組織」が抱える問題にも通じることを明らかにしていきます。歴史から学ぶ、未来のための組織論とは?

第一回:https://hr.my-sol.net/media/useful/a183

第二回:https://hr.my-sol.net/media/useful/a184

第三回:https://hr.my-sol.net/media/useful/a185

編集者: マイソリューションズ編集部
https://hr.my-sol.net/contact/
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