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中小企業にこそ知って欲しい! 「認知力」を引き出す人材育成

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「あの人、勉強できたらしいのに、仕事はね…」

そう言われる人、周囲にいませんか。正解のあるテストの「学力」があっても、
正解の存在しない社会では通用しないと言われますが、そういう人は、
実は「認知力」が足りていないのかもしれません。

そもそも個別の経験や知識はバラバラに頭に入っているだけでは
利用できない「死んだ知識」です。これを、その経験・知識に意味を与え、整理・適度に抽象化して
有機的につなげたものが「生きた知識」。その際に活躍するのが「認知力」と「記号接地」です。

この「認知力」と「記号接地」、ちょっとしたキッカケで飛躍的に向上させることができます。
人材育成に悩む中小企業にこそ、その重要性を知って欲しいものです。




目次

「勉強できるのに、仕事はね…」と言われる人に足りないものとは?

「勉強できるのに、仕事はね…」と言われる人に足りないものとは?

「あの人、勉強できる(学歴高い・良い大学出てる)のに、仕事はね…」

そんな風に思う人、言われる人、周囲にいませんか。

「学校は答えがある世界だから(社会に出ると、正解はないから)ね」と納得していませんか。
逆に「(説明したことが)なんでできないんだ」と言うことも。
こちらは「頭悪い」で片づけていませんか。

どれも、もったいないことかも知れません。

「勉強できる」ということは知的な処理能力自体は高いわけですし、数学の授業などで先生の解き方説明を聞くと
分かったはずなのに、自分では解けない、なんてことは誰にでも経験のあることで、
「説明したことができない」こと自体は、おかしなことではありません。

それでは、なぜそのようなことが起きるのでしょうか。

一般論では
①学校では均質な教育を受けられるが、社会ではそうやって教えて貰えない、
②「正解がある学校」と「正解の無い社会」は違う、
③ゆとり教育の失敗などが挙げられています。
ただ、教育効果の因果関係はデータエビデンスが取りにくいため、なんとなくそんな気がするという感覚的な議論が多く、
間違いとも言えないが正しいとも言えない話が常識のように扱われていることが往々に見られます。 

ここで少なくとも言えることは、そう言われる人たちでは経験や知識が「生きていない」、
つまり「学力」や「経験」があってもそれは「死んだ知識」「死んだ経験」である、ということです。

「死んだ知識」とは?

「死んだ知識」とは、どのようなものでしょうか。

説明的に言えば、「知識として当人の頭に入ってはいるが、それを使える状態になっていない」ものです。
例えば、人に説明されると「そうか」と思うが自分一人ではできないもの。
学校での数学の問題、単語は頭に入っているが文章を作れない英語。
お仕事で言うと、指摘されると「確かにそう」と思うのに、自分一人でやろうとするとできないこと。
会議などで問題点を指摘する人の指摘を聞くと「その通り」と思っても、その指摘を聞くまでは自分では思いつかなかったこと。

どの例も、言われると「確かにそう」思うということは、当人にそれを理解するだけの知識も経験もあるのに、
自分の中からは出てこなかったものです。人に言われた時に「確かにそう」と思えるということは、
当人の中の「どこかにあった」ものなので、「出てこなかった」という言い方をします。

これらの例では、その「死んだ知識」を「生きた知識」に変えられれば、劇的な変化が見られるようになります。

「死んだ知識」を「生きた知識」に変えるもの

では、「死んだ知識」を「生きた知識」に変えるのには、どうしたら良いのでしょうか。

昔は、それは「ひたすら繰り返す」でした。
経験的知識を「身に染み込ませる」方法で、俗に「量から質への転換」に期待するものです。
何度も何度も同じことを繰り返し、当人が無意識にでも有効・無効なやり方を学んでいくのを促すわけです。
そのやり方自体に意味はないとは言いませんが、大きく問題が二つあります。

ひとつは「ひたすら繰り返す」時間が今の時代にとれるか、ということ。
昭和風の「徹夜してでも」的働き方であれば、身に染み込むまでの経験を積むまで時間を費やす方法もあったかも知れませんが、
今はその時間を取ること自体が困難です。

もうひとつは、このやり方は当人にかなりの忍耐を強いることです。
無駄かも知れない経験も合わせてひたすら繰り返し、しかも当人がそこから何かを経験的に得るまでの間は
「何のために繰り返しているのか」分からないまま、ということもあり、今風に言って「タイパ」が悪いと言わざるを得ません。
残念ながら、こちらは人材確保策としてはかなり冒険的です。

方法論としてそれを否定するものではありませんが、この考えに代わる考え方が「認知力」「記号接地」です。
少々強引な言い換えをすると「そういうことか」という瞬間(気づき)を持つことと言えます。

「認知力」「記号接地」とは

この、「そういうことか」と言い換えた「認知力」「記号接地」とは、どういうものでしょうか。

もともと、人には成長過程で具体・個別的な出来事があると、それをある枠組みで理解するという能力があります。
枠組み、つまり抽象化です。例としては「人はどうやって犬をと認識するか」というのがあります。
セントバーナードとポメラニアンを見て、それが共にと認識できるのは何故か、ということです。
「耳が頭の両脇上についていて口先が少し尖った、毛の生えた小動物」だけならと区別できるのは何故なのか、
そもそもポメラニアンは口先が尖っていません。

それでもが認識できるようになるのは、子供の場合、そうやって枠組みに当てはめて試行錯誤しながら、
答え合わせをしつつ枠組みを変化させていくからで、その過程を学習と言うわけです。
これが「認知」ですが、その時、誤った枠組みのまま残るのが「学力」的には躓きとなります。

「認知」には、こうした見た目、言い換えれば「空間的把握」に関するものがありますが、「時間的把握」も認知の対象となります。
お仕事で、何らかの企画・計画をしている際に「それで、それをやると(やらないと)どうなるのか」や
「それをしたら、xxxを気にしないといけないのでは」のような、原因-結果を伴う想定も、時間軸を対象とした「認知」と言えます。

自動車運転で言う「道にボールが飛び出てきたら、子供も後から飛び出てくるかも」の「かも知れない運転」も、時間的認知の例です。
「ボール」と「子供」は直接的に思われるかも知れませんが、実際は①「道にボールが飛び出てきた」
→②「子供たちが近くで遊んでいるのだろう」→③「飛び出たボールを子供が追いかけてくる」
→④「ボールに夢中な子供は他を気にしない可能性がある」→⑤「子供が飛び出てくる可能性がある」、という風に、
間を推定・推論で埋めています。推論なので「かも知れない」運転というわけです。

この推論を行うためには、上の②~④という「仮定としての論理立て」が必要で、
②は「ボール」が飛び出てくる背景を想定し、④は子供が「他を気にしないかも」の推定が必要です。
④は特に、子供に関する一般的・抽象的な概念です。従って、「認知」には抽象化された知識・経験が必要です。
そして、そこから⑤に至るのは、目前で起きている具体的な出来事に、その抽象化した知識・経験を当てはめる能力です。
この、「具体的な出来事→抽象化した知識・経験の想起(アブダクション推論能力)と、
その他の不要な情報の排除(情報処理機能)→想起した知識・経験を具体的な行動にフィードバック→思考過程が誤っていたら修正する(メタ認知能力)」ができることを
「記号接地」と言います。アブダクション推論能力の有名な使い手には、コナン・ドイルの創造した名探偵シャーロック・ホームズがいます。


ちょっとしたキッカケで変わる「認知力」と「記号接地

この「認知力」と「記号接地」、言い換えると「そういうことか」の有名な例では、他に古代ギリシャの科学者・アルキメデスの「ユウレカ!」があります。
王様に王冠が純金製かどうか正贋判定を命じられたアルキメデスが、風呂からこぼれる水を見て叫んだ言葉ですが、
これは「金属によって比重が違う」「体積と重量から比重確認ができる」「水の比重=1から、あふれた水の量で体積確認できる」という、
三つのそれぞれ個別の知識が一つにつながったものです。

言い換えれば、一つ一つの知識は、この場面では「死んだ知識」ですが、
それを一つにまとめられるとした瞬間に「生きた知識」になった、と言えます。

仕事の場面では、この「そういうことか」の瞬間をどれだけ持つか、
そして、それを如何に効率的・効果的に生み出すか、ということが人材育成の重要な点と言えます。

先に述べた「これをやったら…」の場面で考えると、「そういう場面に多く」臨場する、というのも効果的ですが、
これは受け手個人が枠組みを勝手に作り上げるのに期待する、というやり方で、その場に居合わす機会が限られるという欠点があります。

逆に、「計画を立てた時に、どんなことを想定する必要があるか」を事前に考えて貰った上で、
その結果として議論をした場合、その場で出たこと・出なかったことで「答え合わせ」ができるため、
効率的に考える機会を持つことができるとも言えます。

ただ、この時に大切なのは、「こういう項目で考えるように」と教えるのではいけない、ということです。
何故なら、それでは当人が枠組みを作る作業をしないため、当人の「認知=そうだったのか」につながらないからです

 

「そうだったのか」を引き出す人材育成

ここで人材育成の観点で大切なのが、「当人に考えさせる」ことです。
従って、育成者に求められるのは「教える」のではなく「考えて貰う」能力です。簡単そうに聞こえますが、これが結構難しいものです。

自分の分かっていることは「説明=教え」たくなるのが人の性というものですから。そこを敢えて「考えて貰う」ために質問を繰り返す、
当人が自分事として自分の中に枠組みを作って貰うように仕向ける、これが人材育成には重要です。そのため、育成者は「質問を繰り返す人」である必要があります。
もちろん、ある程度は誘導的な質問も必要なことがありますが、当人に考えていただく場合、YES/NOでなく5W1H形式の質問中心であることが望ましいです。

その結果、「そうだったのか」と気づいて貰えた知識・経験は、
説明して「分かった?」「ハイ」のやりとりよりも、当人のものとして残っていくものとなります。

中小企業にこそ、「認知力」の人材育成を

この「認知力」を引き出す人材育成は、特に中小企業でこそ大切です。

最近の中小企業白書や商工中金報告によると、中小企業の人材不足感は6割以上である一方、
採用コストはほぼ7割以上で増加、人材確保・育成を経営課題とする企業は3割を超える、と報告されています。

企業経営が厳しい中でも人材採用コストが増加する一方、なかなか採用に結びつかない現状では、既存人材の育成重要性は以前にも増しています。
人材育成コストもままならないというのも、悩みの種です。その点、「認知力」は当人の中にあるものを「引き出す」という意味で、
これまでの集合教育や「教育したけど効果がね…?」よりも当人の納得力も、それによる組織効果も高いものであると期待することができると考えられます。

 

まとめ

「死んだ知識」を「生きた知識」に変えると期待される「認知力」。

「そうだったのか」という経験を持ってもらうことです。これは、当人の中にあるバラバラな知識・経験(死んだ知識)を、
視点を変えてつなげることで得られるもの(生きた知識)です。


それを引き出すのに重要なのは、説明力よりも質問力。

質問力をつけること自体、見た目ほどには簡単なものではありませんが、
適切に行えれば無から有を生むような教育よりも効果の高い結果が期待できます。




 

参考文献・資料:

学力喪失 -認知科学による回復への道筋- (今井むつみ。岩波新書)

シャーロック・ホームズの記号論 C.S.パースとホームズの比較研究 (トマス・シービオク&ジーン・ユミカー=シービオク著、富山太佳夫訳。岩波書店)

2025 年版 中小企業白書

中小企業の人材育成の状況について (商工中金)

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