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【経営者必読・歴史に学ぶ組織論⑦】 なぜ外部の人間は「組織の病」をすぐに見抜けるのか? 〜アメリカの慧眼と明治憲法〜

はじめに:あなたの会社の「常識」は、外部の「非常識」かもしれない
前回、明治憲法の制定者たちが、なぜ自ら設計したシステムの構造的欠陥に気づけなかったのか、その「死角」について考察しました。今回は、その対極にある問いを探求します。「なぜ、アメリカは早くからその欠陥を正確に見抜いていたのか?」
彼らは予言者だったわけではありません。ただ、日本とは全く異なる「ものさし」を持っていただけです。そのものさしとは、自国の建国史から生まれた、国家と軍隊に対する揺るぎない哲学でした。
この日米の認識のズレは、内部の人間が「当たり前」として見過ごしてしまう組織の病理を、いかに外部の客観的な視点が鋭く暴き出すかを教えてくれます。これは、社外取締役や外部コンサルタントの価値を考える上で、極めて重要な示唆を与えてくれる歴史のケーススタディです。
第一回 なぜ巨大組織は「完璧な設計図」から崩壊したのか?〜明治憲法に学ぶ、創業期のビジョンと構造的欠陥〜
第二回 なぜ「エリート部署」の暴走を止められないのか? 〜明治憲法に学ぶ「二重政府」という組織の病〜
第三回 「犯人探し」で組織は変わらない。失敗を力に変える「構造的視点」とは?
第四回 「改善」か「革命」か?戦後日本、運命の分岐点 〜明治憲法・幻の改正案・現行憲法、3つの設計図を比較する〜
第五回 なぜ「非公式の重鎮」は組織を救い、時に壊すのか? 〜明治憲法の「元老」に学ぶ、相談役・顧問制度の功罪〜
第六回 なぜ聡明なリーダーは「致命的な欠陥」を見過ごすのか? 〜明治憲法・設計者の死角〜
視点の違い①:国家は「作る」ものか、「縛る」ものか
根本的な違いは、国家観そのものにありました。
- 日本の明治憲法: 欧米列強に対抗するため、強力な中央集権国家を「創り出す」ための設計図でした。
- アメリカ合衆国憲法: 英国王という強大な権力から独立した経験から、国家権力が暴走しないように「縛る」ための設計図でした。
この目的の違いが、評価基準の違いを生みます。日本が「いかに効率的に国力を集中できるか」を重視したのに対し、アメリカは「いかに権力を分散させ、国民の自由を守るか」を重視しました。同じシステムを見ても、片方が「効率的なトップダウン構造」と見るものを、もう片方が「危険な権力集中」と見るのは当然だったのです。
視点の違い②:「文民統制(シビリアン・コントロール)」という絶対的なものさし
アメリカが明治憲法の構造を診断する上で用いた、最も重要な「ものさし」。それが「文民統制(シビリアン・コントロール)」の原則です。
これは、軍隊は、国民から選挙で選ばれた文民(大統領や議員)の絶対的なコントロール下に置かれなければならない、という思想です。独立戦争の際、英国王が常備軍を使って市民を抑圧したことへの強い反省から、アメリカ建国の父たちは「コントロールされない軍隊」を共和制に対する最大の脅威と考えました。
このものさしを明治憲法に当てた時、アメリカの目には異常な光景が映りました。
- 政府(内閣)のコントロールを受けない、独立した軍隊(統帥権の独立)。
- 責任の所在が曖昧な、複数の権力中枢(内閣、軍部、枢密院、元老)。
彼らの目には、これが強力で統一された国家ではなく、むしろ危険なほどに分裂した「二重政府(デュアル・ガバメント)」に映ったのです。そして、文民政府と軍事政府が対立すれば、最終的に銃を持つ側が勝つであろうことを、彼らは早くから正確に予測していました。
慧眼の証拠:1930年代、アメリカ外交官たちの的確な分析
この「二重政府」という診断は、単なる後付けの解釈ではありません。当時のアメリカの外交官たちは、進行中の出来事を驚くほど冷静に分析していました。
1931年の満州事変の際、駐日米国代理大使は国務省への電報で「陸軍の行動に外務省は心底驚いているように見える」と報告しています。これは、日本の文民政府が自国の軍隊を全くコントロールできていない事実を、リアルタイムで把握していた証拠です。
また、スティムソン国務長官は、日本の文民(幣原外相)と軍部の「明確な亀裂」を認識した上で、「幣原男爵の立場を弱めるのではなく、強化する」ことを意図して外交を行っていました。つまり、アメリカの外交トップは、日本政府が一枚岩ではないことを前提に、戦略を立てていたのです。
駐日大使ジョセフ・グルーや国務省顧問スタンレー・ホーンベックも、「軍部が明確に政府を動かしている」「日本の外務省を論破できても、軍事機構の前進は止められない」と繰り返し警告していました。1930年代の危機は、彼らにとって驚きではなく、長年指摘してきた構造的欠陥がもたらした、論理的で予測可能な帰結だったのです。
診断から処方箋へ:周到に準備されていた「戦後改革」
アメリカのこの長年の「診断」は、戦後、場当たり的に「処方箋」として示されたわけではありません。驚くべきことに、その準備は戦争のかなり早い段階から始まっていました。
記録によれば、アメリカ国務省は1942年11月頃には、すでに対日戦後処理の基本政策の検討に着手しています。その後、陸軍省、海軍省も研究を開始し、1944年には三省調整委員会(SWNCC)が設置され、日本の統治機構をどう変えるべきか、具体的な議論が重ねられていました。つまり、アメリカは日本と戦いながら、同時に戦後の「組織改革プラン」を練っていたのです。
この周到な準備があったからこそ、戦後の対応は迅速でした。1946年2月、日本政府(松本委員会)が天皇主権を維持する保守的な改正案をGHQに提出すると、マッカーサーはこれを即座に拒否。わずか10日ほどの間に、アメリカが長年問題視してきた病巣にメスを入れる、抜本的な改革案を提示できたのです。
1946年2月3日に示された「マッカーサー三原則」(国民主権、戦争放棄、封建制廃止)は、まさにアメリカの診断の最終回答でした。それは、軍部が錦の御旗として利用した天皇主権を解体し、「文民統制」問題を軍隊そのものをなくすことで根源から解決するという、極めてロジカルな処方箋だったのです。
結論:外部の視点こそが、組織の「健康診断」である
なぜアメリカは明治憲法の問題点に早くから気づけたのか。それは、彼らが日本とは異なる歴史的経験から生まれた、「権力分立」と「文民統制」という強力な診断ツールを持っていたからです。内部の人間が「国体」や「伝統」として疑わなかった構造を、彼らは客観的な組織論の視点から「機能不全」と診断しました。
これは、現代の経営者にとって極めて重要な教訓です。長く組織にいると、非効率なプロセスや不透明な意思決定、特定の部署の「聖域化」などが「うちの会社のやり方」として常識になってしまいます。しかし、それは外部の投資家や新しい顧客、そして転職してきたばかりの優秀な社員の目には、明らかな「病」として映っているかもしれません。
社外取締役の意見に真摯に耳を傾けること。外部の専門家による組織診断を定期的に受けること。異業種から来た人材の「なぜ?」という素朴な疑問を大切にすること。これらはすべて、組織の「当たり前」に潜むリスクを洗い出し、健全な成長を続けるための不可欠な「健康診断」なのです。
歴史は、最も手厳しい、しかし最も優れた外部コンサルタントなのかもしれません。
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第一回 なぜ巨大組織は「完璧な設計図」から崩壊したのか?〜明治憲法に学ぶ、創業期のビジョンと構造的欠陥〜
第二回 なぜ「エリート部署」の暴走を止められないのか? 〜明治憲法に学ぶ「二重政府」という組織の病〜
第三回 「犯人探し」で組織は変わらない。失敗を力に変える「構造的視点」とは?
第四回 「改善」か「革命」か?戦後日本、運命の分岐点 〜明治憲法・幻の改正案・現行憲法、3つの設計図を比較する〜
第五回 なぜ「非公式の重鎮」は組織を救い、時に壊すのか? 〜明治憲法の「元老」に学ぶ、相談役・顧問制度の功罪〜
第六回 なぜ聡明なリーダーは「致命的な欠陥」を見過ごすのか? 〜明治憲法・設計者の死角〜
編集者: マイソリューションズ編集部
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